星を数えた屋上

第一章 見えない星

 屋上の鍵を持っているのは、この学校で俺ひとりのはずだった。

 三日前の卒業式で、最後の先輩がいなくなった。式のあと、部室の前で待っていた先輩は、紙袋に詰めた観測日誌の束と一緒に、銀色の鍵を俺の手のひらに落とした。

「天文部、あとはよろしく」

 よろしくと言われても、部員は俺しか残っていない。

 それから三日、俺はひとりで屋上に上がった。日誌の最後のページは、先輩の丸い字が続いたあと、急に俺の角ばった字に変わる。書く人間が変わっても、しし座の星の数はほとんど変わらなかった。空は、誰が見上げていようと関係ないらしい。

 だから、四階の踊り場から見上げた鉄の扉が指一本ぶん開いていたとき、最初に疑ったのは自分だった。昨日、閉め忘れたのかもしれない。けれど鍵は、コートのポケットの中で、ちゃんと冷たかった。

 隙間から、夜の空気が細く流れこんでくる。山に残った雪の上を渡ってきた、硬い匂いの風だ。三月に入っても、この町の夜はまだ冬のままでいる。

 押し開けると、蝶番がいつもどおり短くきしんだ。

 フェンスの前に、誰かが立っていた。

 制服の上に紺のコートを着て、マフラーを二重に巻いている。女子だった。こちらに背を向けて、空を見上げたまま動かない。給水塔の影が足もとまで伸びていて、顔は見えなかった。

「……誰」

 声をかけると、彼女はゆっくり振り返った。

「あ、ハルくんだ」

 ノブを握ったまま、俺は固まった。下の名前で呼ばれたのは、ずいぶん久しぶりだった。

 顔を見て、ようやく思い出す。隣のクラスのアイだ。名字で呼ばれるのが嫌いらしく、誰に対しても「アイでいいよ」と言うやつだった。冬休みが明けてから学校を休みがちになったと、誰かが話していた気がする。

「アイだよ。カタカナでアイ」

「……知ってる」

「よかった。覚えられてた」

 彼女は笑った。白い息が、マフラーの上でほどけた。

「なんで、ここにいんの」

「鍵、借りたの。佐伯先生に」

 指先に、小さな鍵がぶら下がっていた。俺のと同じ、銀色の鍵。

 顧問の佐伯先生は、名前だけの顧問だ。五年間、一度も屋上に来たことがないと先輩たちは言っていた。合鍵があることさえ、俺は知らなかった。

「よく貸したな、あの人」

「お願いしたら、貸してくれたよ」

 それだけ言って、アイは鍵をポケットにしまった。

「それでね、入部したいんだけど」

「……は?」

「天文部。まだ募集してる?」

 募集どころか、いつ廃部の書類が回ってきてもおかしくない部だ。そう言うと、アイはなぜか、ほっとしたように息をついた。

「じゃあ、ちょうどいいね」

 何がちょうどいいのか、わからなかった。

「星、好きなの」

「ううん。全然くわしくない」

 彼女は首を振って、また空を見上げた。

「でも、毎晩、星を数えたいの」

 冗談を言っている顔ではなかった。

 毎晩。その言葉だけが、妙に重く耳に残った。理由を聞こうとして、やめておく。聞いたら、何かを引き受けることになりそうな気がしたから。

 そのかわりに、断る理由を探した。探しているうちに気づく。断る理由は、どこにもない。部員がひとり増えれば、廃部が少しだけ遠のく。それだけのことだ。

「……スマホ、しまって」

「え?」

「画面の光。目が暗いのに慣れるまで、十五分はかかる。一回でも明るいのを見たら、最初からやり直し」

 アイは慌てて、スマホをポケットに押しこんだ。

「ハルくん、くわしいね」

「部員だから」

 本当は、部員だからじゃない。けれど、それを話す気はなかった。

 鞄から懐中電灯を出す。レンズに赤いセロハンが二重に貼ってあって、スイッチを入れると、足もとのコンクリートがぼんやり赤く染まった。

「なんで赤いの」

「赤い光なら、暗さに慣れた目を邪魔しにくい」

「へえ。写真の暗室みたい」

 祖父の懐中電灯だった。セロハンの端は、もう茶色く焼けている。

 赤い光が、アイの目の中で、小さな点になっていた。

 十五分は、思っていたより長い。

 俺たちはフェンスにもたれて、目が慣れるのを待った。風が吹くたびに、金網が低く鳴る。遠くで、一両きりの電車が鉄橋を渡っていった。最終のひとつ前だ。この町では、それが時計のかわりになる。

 屋上から見下ろす町は、暗い。国道沿いのコンビニと、ぽつぽつ並ぶ街灯。田んぼの向こうは、もう山の黒い影だ。

「ここから見ると、町って小さいね」

「何もないからな」

「あの、いちばん明るいの。病院だよね」

 アイが指さした先で、四角い建物の窓が、白い光の列をつくっていた。町でいちばん大きな建物で、町でいちばん遅くまで明かりがついている。

「たぶん」

「そっか」

 彼女はそれきり、病院のほうを見なかった。

 手袋の中で、指先がかじかんで痛みはじめた。指を握ったり開いたりしていると、アイが両手に息を吹きかけているのが目に入った。手袋をしていない。指の関節が赤くなっていた。

 鞄の底を探ると、使い捨てのカイロがひとつ出てきた。部室の段ボールに先輩たちが残していったものを、いくつか持ち歩いていたのだ。

「ほら」

 放ると、アイは胸の前で両手を合わせるようにして受けとめた。

「いいの?」

「先輩の置き土産。期限、切れてるかもしれないけど」

「切れてたら、どうなるの」

「あんまり、あったかくならない」

「じゃあ、気持ちであっためる」

 意味はわからなかったが、アイは満足そうに、カイロを両手で包んだ。

「ハルくんは、なんで天文部に入ったの」

「……先輩に誘われたから」

「ふうん」

 アイは、それ以上聞かなかった。嘘だと見抜かれた気がして、俺は空を見上げた。

「先輩たちがいなくなってからも、ひとりで数えてたの?」

「三日だけだけど」

「ひとりで数えるのって、さみしくない?」

「別に。星、数えるだけだし」

 答えてから、本当にそうだろうかと思った。昨日も、おとといも、ここで数えている。数え終えて日誌を閉じるとき、聞こえるのは自分の息の音だけだった。それをさみしいと呼ぶのかどうか、俺は知らない。

「私は、さみしいと思う」

 アイは、両手の中のカイロを見つめたまま言った。

 十五分たつと、空が変わった。

 さっきまで数えるほどしかなかった星が、暗がりの奥から、ひとつ、またひとつと浮かんでくる。空に星が増えたわけじゃない。もともとそこにあったものに、こっちの目がようやく追いつくだけだ。

「わ」

 アイが小さく声をあげた。

「さっきより、ずっと多い」

「目が慣れたんだよ」

 アイはしばらく、口を半分開けたまま空を見ていた。首を反らしすぎて、マフラーがずり落ちかけている。

 俺は東の空に向かって、手袋の指を伸ばした。

「あれ。はてなマークを裏返したみたいな形、わかる?」

「……どれ」

「あの明るい星から、上に向かって、くるっと」

 指で線をなぞってみせる。アイは俺の指先と空を何度も見比べて、やがて「あ」と言った。

「わかった。釣り針みたい」

「ライオンの頭。たてがみのところ。しし座っていう」

「ライオン? どこが?」

「体は、そこから左下に続いてる。いまは頭だけでいい」

「頭だけのライオン」

 アイはおかしそうに笑った。

「いちばん下の明るいのが、心臓。レグルス」

「心臓」

 その星を、彼女はしばらく黙って見ていた。

「レグルスって、どういう意味?」

「小さな王様」

「王様なのに、小さいんだ」

「ラテン語で、そういう意味らしい」

「ハルくん、ほんとにくわしいね」

 今度は、何も答えなかった。

「で、何を数えるの」

 俺は日誌を開いて、赤い光で最初のページを照らした。誰かが鉛筆で描いた、しし座の図がある。星と星を結ぶ線が、一頭のライオンの形をつくっている。その上に、先輩の、そのまた先輩の代から書き継がれてきた見出しがあった。〈しし座の星数え〉。いまのこの部に残っている、ただひとつの活動だ。

「この線の内側に見える星を、全部数える。晴れた夜は毎晩」

「それで、何かわかるの?」

「空の暗さ。街の明かりが強いところだと、片手で足りるくらいしか見えない。空が暗いほど、たくさん見える」

「じゃあ、数が多いほど、いい空ってこと?」

「そう。同じ星座を、同じやり方で、何年も数える。そうしないと比べられないから」

「この町、何にもないもんね」

 アイは、少しうれしそうだった。

 日誌の図と空を見比べながら、体の線も教えた。たてがみの後ろに、台形の胴。そのいちばん左の星が、しっぽの先のデネボラ。

「やっと全身になった」

 アイは、指で空にライオンの輪郭を描いた。

 数え方も教えた。暗い星は、正面から見ると消えてしまう。目の真ん中は、暗いものが苦手だからだ。だから、数えたい場所のほんの少し横を見る。そらし目、という。

「なにそれ。照れ屋さんみたい」

「目の仕組みの話」

「星が照れてるんじゃないの?」

「星は照れない」

 アイは声をあげて笑った。屋上で誰かが笑うのを聞くのは、先輩たちがいたころ以来だった。

 俺が先に数えた。

 レグルスから、たてがみをなぞって上へ。そこから体のほうへ、線の内側を少しずつ区切りながら、数えたところを頭の中で塗りつぶしていく。途中でわからなくなったら、最初からやり直す。数えているあいだは、余計なことを考えなくてすむ。この時間が、俺はわりと嫌いじゃなかった。

「十八」

 日誌に書きこむ。〈三月四日 晴れ 十八〉。先週の記録とほとんど変わらない。この町の空は、今夜もちゃんと暗い。

 隣を見ると、アイはまだ空を見上げていた。唇が小さく動いている。数えている、というより、何かを確かめているように見えた。

 ずいぶん長い。俺の倍以上はかかっている。

「六十九」

 ペンが止まった。

「……は?」

「六十九。しし座の中、だよね?」

「いや、ありえないだろ。数え間違い」

「間違えてないよ」

 飛行機の明かりでも数えたのかと思って、しし座のあたりを見直した。動いている光はひとつもない。人工衛星にしては、数が多すぎる。

「先輩たちの日誌を全部見ても、いちばん多かった夜で二十五だ。六十九なんて……」

「見えてないだけだよ」

 アイは笑った。からかっている笑い方ではなかった。かといって、意地を張っている顔でもない。本当のことを言っている人の顔だった。少なくとも、俺にはそう見えた。

「書いて」

「どこに」

「そこ。私のぶんも、ちゃんと」

 しかたなく、十八の横に「アイ」と書いて、六十九と並べた。書いてしまうと、その数字はやけに堂々として見えた。

 何十年ぶんの晴れた夜が、あの日誌の束には並んでいる。そのどこにも、六十九なんて数はなかった。

 九時には屋上を閉める。それが、佐伯先生との唯一の約束だった。

 日誌を鞄にしまい、赤い光で足もとを確かめる。遠くの鉄橋を、最終の電車が渡っていった。さっきより、町の明かりがいくつか減っている。

 アイはカイロを握ったまま、もう一度しし座を見上げた。

「明日も来ていい?」

「……晴れたらな」

「曇ってても、来ていい?」

「曇ってたら、数えられないだろ」

「いいの」

 何がいいのか、やっぱりわからなかった。

 扉に手をかけたところで、俺は振り返った。このまま帰ったら、あの六十九がずっと頭に残る気がした。

「アイ」

「ん?」

「もう一回、数えて。ゆっくり」

 アイは少し驚いた顔をして、それから、うん、とうなずいた。

 俺は空ではなく、彼女の横顔を見ていた。

 唇が小さく動きながら、しし座の形をなぞっていく。そして数え終わる直前、アイはゆっくりと一度、瞬きをした。目を閉じていた時間は、ふつうの瞬きより、ほんの少しだけ長かった。

「六十九」

 さっきと、ひとつも変わらない数だった。

「ね。見えてないだけだよ」

 アイはそう言って、カイロを包んだ両手をコートのポケットにしまった。

 俺はもう一度、しし座を見上げる。

 何度数えても、十八だった。

第二章 数の合わない夜

 次の夜、アイは俺より先に屋上にいた。

 扉を開けると、フェンスの前で振り返って、両手に持ったものを掲げてみせる。

「はい。昨日のお礼」

 缶のココアだった。自転車置き場の横の自販機で、いちばん上の段に並んでいるやつだ。受けとると、手袋ごしでもわかるくらい熱かった。

「カイロ、期限切れてなかったよ。朝まであったかかった」

「朝まで持ってたのかよ」

「布団の中で」

 アイは自分のぶんのプルタブを開けて、両手で包むように持った。今日も手袋をしていない。

 目が慣れるのを待つ十五分のあいだ、俺たちはココアを飲んだ。甘すぎる、と思った。それでも缶が空になるころには、指先の感覚が少しだけ戻っている。

 その夜は、俺もいつもより時間をかけて数えた。そらし目で、線の端のほうまで。見落としがあるなら、それは俺のほうかもしれない。それでも、十七だった。東の低いところが薄く霞んでいて、昨日よりひとつ少ない。

 アイのほうは、いつもどおり長かった。そして、ゆっくりと一度、瞬きをしてから言った。

「六十七」

「……あのさ」

「うん」

「目、望遠鏡かなんかなの」

「両目とも一・五だよ」

「視力でどうにかなる数じゃないだろ」

「じゃあ、どうにかならない数なんだね」

 アイは楽しそうに言って、ココアの最後のひと口を飲んだ。言い返す言葉が見つからない。俺は黙って、日誌に二つの数を並べた。

 それから、屋上は二人になった。

 一度家に帰って夕飯をかきこみ、八時前に自転車で学校へ戻る。階段をのぼると、たいていアイが先にいる。目が慣れるまでの十五分に、ココアを飲む。次の夜からは、交代で買うことになった。その夜の当番が、二本。そういう決まりを、どちらが言いだしたのかは覚えていない。

 アイは、しし座を自分で見つけられるようになった。釣り針を探して、その下の心臓を見つける。最初の夜は俺の指先をたどっていた視線が、三日目には、まっすぐ東の空へ向かうようになっていた。

 十五分のあいだに話すのは、どうでもいいことばかりだった。自販機のココアが、先月から十円上がったこと。佐伯先生が、少なくとも二週間は同じ文庫本を読んでいるらしいこと。アイの家の猫が、冬のあいだ一度もこたつから出てこないこと。話が途切れても、気まずくはない。金網が鳴って、電車が鉄橋を渡って、それで十五分が終わる。

 昼間の学校で、アイを見かけることはあまりない。廊下ですれちがうこともなく、隣のクラスの窓ぎわの席が空いている日もあった。それでも夜になると、屋上にはちゃんと彼女がいる。

 数は、毎晩合わなかった。俺が十六なら、アイは六十と少し。俺が十九なら、六十いくつか。二つの数は、別々の空から持ってきたように離れたまま、日誌の同じ行に並んでいく。

 九時に屋上を閉めて階段を下りると、一階の職員室だけが、いつも明るい。窓の向こうで、佐伯先生が机に向かっている。俺たちが昇降口を出るころ、その明かりは決まって消えた。残業の多い人なんだな、と俺は思っていた。

 二日目の帰り、校門の前で、アイが俺のスマホを取りあげる。

「明るいのを見たら、やり直しなんでしょ。帰りならいいよね」

 そう言って、勝手に自分の連絡先を打ちこんで返してきた。画面の光に、彼女の鼻の頭が赤く浮かんでいた。

 土曜の夜は、学校が閉まっている。

 だから数えなくていい。そう思って自分の部屋で寝転がっていた九時過ぎ、スマホが短く鳴った。

 アイからだった。数字がひとつだけ、届いている。

〈六十六〉

 しばらく画面を見つめてから、俺は窓を開けた。冷たい空気が流れこんでくる。東の空に、しし座はちゃんといた。けれど隣の家の前の街灯がちょうど視界の端に入って、暗い星をいくつも消してしまっている。

〈こっちは無理。街灯〉

 返すと、すぐに返事が来た。

〈じゃあ、私のぶんだけ書いといて〉

〈なんで〉

〈毎晩って言ったでしょ〉

 なんで毎晩なんだよ、と打ちかけて、消した。文字で聞いても、屋上で聞いても、たぶん同じだ。聞いたら、何かを引き受けることになる。

 日曜の夜にも、同じ時刻に数字がひとつ届いた。

 月曜日、俺は日誌に土曜と日曜の日付を書き、自分の欄は空けたまま、アイの欄にだけ、送られてきた数を写した。

「ねえ、あれは?」

 その月曜の夜、アイは東の空の、しし座から少し離れたところを指さした。ひときわ明るい点が、じっと光っている。

「惑星。たぶん木星」

「星じゃないの?」

「星は、自分で燃えて光ってる。惑星は、太陽の光を跳ね返してるだけ。地球の仲間みたいなもんだよ」

「じゃあ、あれも数える?」

「数えない。星座の星じゃないから。それに、あれは瞬いてない」

「またたく?」

「ちかちかすること。星は遠すぎて、届く光が針の先くらい細い。だから、間の空気がちょっと揺れるだけで、光もちらちら揺れて見える。惑星はもう少し近くて、ほんのちょっとだけ大きさがあるから、あんまり揺れない」

 アイはしばらく、木星とそのまわりの星を見比べていた。それからこっちを向いて、わざとらしく目をぱちぱちさせた。

「こう?」

「それは、まばたき」

「同じじゃん」

「字は同じだけど」

 言ってから、本当にそうだと気づいた。瞬く。人の目なら「まばたく」で、星なら「またたく」。どちらも、同じ一文字で書く。

「へえ」

 アイは、なぜか少し黙った。

「じゃあ、星もまばたきしてるのかもね」

「してない。空気のせいだって」

「夢がないなあ、ハルくんは」

 彼女は笑って、しし座に向き直った。そして数え終わる前に、いつものように、ゆっくりと一度、瞬きをした。

 火曜の夜、目が慣れるのを待つあいだに、アイが日誌の束を見たいと言った。

 部室から持ってきた紙袋には、表紙の色も大きさもばらばらなノートが十冊以上入っている。いちばん古い一冊は紙が茶色く変わって、角が丸くすり減っていた。赤い光で照らすと、知らない誰かの字で、知らない年の日付が並んでいる。

「ほんとに、ずっと数えてるんだ」

「晴れた夜はな」

「二十五の夜って、どれ?」

 探すと、すぐに見つかった。何年も前の二月。その行の端に、小さな字でひとこと添えてある。

〈大雪で町じゅう停電。空がいちばん暗い夜〉

「停電すると、星が増えるの?」

「増えるんじゃなくて、見えるようになる。地上の明かりが消えると、空が暗くなるから」

「じゃあ、この町の空がいちばんきれいだったのは、町が真っ暗だった夜なんだね」

 アイは、その一行を指でなぞった。

「いつか、私の数も、誰かが読むのかな」

「読んでも、意味わかんないだろ。六十九とか」

「わかんなくていいよ。ここにあったって、わかれば」

 何がここにあったのか、俺は聞かなかった。

 ノートを紙袋に戻すと、アイは東の空を見上げた。

「ねえ、なんでライオンなの。しし座って」

「ギリシャ神話。ネメアっていう谷に、人を食うライオンがいて、ヘラクレスに退治された。そのライオンを、神様が空に上げた」

「退治されたのに、空に上げてもらえたの?」

「神話だとな。死んだやつが、よく星座になる」

「ふうん」

 アイはしばらく、ライオンの心臓のあたりを見ていた。

「いいね、それ」

「何が」

「いなくなっても、毎晩見てもらえるところ」

「神話の話だよ。ほんとに星になるわけじゃない」

「夢がないなあ」

 月曜の夜と同じことを言って、アイは笑った。その笑い方は、月曜より少しだけ静かだった。

 週の半ばに、寒さがぶり返した。

 昼間に雪がちらついて、夜には雲が切れたものの、屋上のコンクリートは白く凍っていた。息を吸うと、鼻の奥がつんと痛む。

 アイは、また手袋をしていなかった。

「持ってないの、手袋」

「あるよ。忘れるだけ」

「毎日?」

「毎日」

 ココアの缶を握っても、すぐに冷めてしまう。アイの指先は、関節のところが赤を通りこして、白っぽくなりはじめていた。

 俺は左の手袋を外して、アイに突きだした。

「片方だけ?」

「両方貸したら、俺が数えられない」

 嘘だった。数えるのに手袋はいらない。ただ、両方を渡すのは、何か違う気がした。

 手袋をはめる前、アイの左手の甲に、小さな絆創膏が貼ってあるのが見えた。

「猫」

 俺が何か言う前に、アイが言った。

「こたつから引っぱり出そうとしたら、やられた」

 アイは手袋をはめて、指を何度か握ったり開いたりした。指の先が、だいぶ余っている。

「あったかい」

「俺の体温な」

「知ってる」

 そう言って、手袋をした左手を、もう片方の手でそっと包んだ。

 その夜、俺たちは片方ずつ手袋をして、もう片方の手をポケットに入れたまま、しし座を数えた。

 週の終わりには、西の空で月が少しずつ太りはじめた。月が明るい夜は、空そのものが明るくなる。昼間に星が見えないのと同じ理屈で、暗い星から先に消えていく。俺の数は、十四まで落ちた。

 アイの数も、同じくらい減っている。

 日誌をめくりながら、俺はそのことを考えていた。でたらめな数を言っているなら、月なんか関係ないはずだ。アイは、少なくとも俺と同じ空を見ている。そのうえで、俺には見えない何かを、数に足している。

 何を、なのかはわからなかった。

 その週の金曜、九時に階段を下りると、職員室の扉が開いていた。

「おう、ちょっと」

 佐伯先生が、椅子に座ったまま手招きした。五十を過ぎた古典の先生で、ネクタイをしているところを見たことがない。机の上には、湯気の消えたマグカップと、読みかけの文庫本と、採点の終わった答案の束が載っていた。

「四月の部長会でな、部活の見直しをやるそうだ。部員が三人に満たなくて、目に見える活動の実績もない部は、廃部の候補になる」

「……天文部ですか」

「おまえのとこだな」

 先生は、悪びれもせずに言った。

「実績って、何をすればいいんですか」

「知らん。何か見せられるものがあれば、俺が会議で粘る。なければ、それまでだ」

 そう言ってから、先生はアイのほうを一度だけ見た。何か言いかけたようにも見える。けれど結局、文庫本を手に取っただけだった。

「気をつけて帰れよ」

 昇降口を出ると、背中で職員室の明かりが消えた。

「実績、つくろうよ」

 自転車の鍵を外しながら、アイが言った。

「星を数えて、何の実績になるんだよ」

「なるよ。毎晩、数えてるんだから」

 アイは、俺の左の手袋をはめたまま、自転車を押して校門のほうへ歩きだした。返してもらうのを、俺はまた忘れた。

 週が明けた月曜は、朝から雲が低かった。

 夕方には山の稜線が見えなくなり、八時を過ぎても、空は一枚の灰色の布のままだった。星は、ひとつもない。

 今日は無理だな、と思いながら、それでも俺は階段をのぼった。曇ってても来ていいかと、最初の夜にアイが聞いたのを覚えていたからだ。

 扉を開けると、アイはもういた。

 俺の左の手袋をはめて、フェンスにもたれ、何もない空を見上げている。

「曇ってるぞ」

「うん」

「数えられないだろ」

「うん」

 それでも帰ろうとしないので、俺も隣に立った。日誌を開いて、赤い光で今日の日付を書く。天気の欄に〈曇り〉。俺の数の欄には、横に一本、線を引いた。

 アイは空から目を離さなかった。雲の切れ間を探しているのかと思った。けれど、彼女の視線は動かない。しし座がいるはずのあたりに、じっと止まっている。

 風が、金網を鳴らした。遠くで、最終のひとつ前の電車が鉄橋を渡っていく。

 しばらくして、アイの唇が小さく動きはじめた。

 数えている。

 何もない空を。

 声は、かけられない。その横顔を、ただ見ていた。

 やがてアイは、ゆっくりと一度、瞬きをした。

「四十」

 灰色の空の下で、彼女はいつもと同じ声で、そう言った。

第三章 春霞

 次の夜は晴れた。

 ただ、冬の晴れ方とは違っていた。空の底のほうが、水に牛乳を一滴たらしたように白っぽい。山の稜線がにじんで、町の明かりのまわりに、ぼんやりとした輪ができている。

 目が慣れるまでの十五分、俺はずっと迷っていた。結局、ココアの缶が空になってから聞いた。

「昨日、何を数えてたんだよ」

「星だよ」

「雲しかなかっただろ」

「雲の上には、あるでしょ」

 アイは、空の白っぽいあたりを見ていた。

「見えなくても、あるものはあるよ」

 それ以上は、聞けなかった。

 星が出そろっても、空は眠たそうなままだった。

「春霞。春になると、空気の中に水分とか、ちりとか花粉が増える。だから遠くがかすんで、暗い星から見えなくなっていく」

「春って、星には不利なんだ」

「冬のほうが、ずっとよく見える。それに春の空は、もともと明るい星が少ない」

「なんで?」

「天の川から、離れた方向を見てるから。天の川って、星がいっぱい集まってる円盤みたいなもので、俺たちはその中にいる。冬や夏の夜は、その円盤の面に沿った方向を見てるから、星が多い。春の夜は、円盤の外を向いてる」

「外には、何もないの?」

「ある。ずっと遠くに、別の銀河がたくさん。望遠鏡なら見える。目じゃ、見えないだけで」

 アイは、霞んだ空をしばらく見上げていた。

「見えないけど、ちゃんとあるんだ」

「そう」

「じゃあ、春の空って、いちばん遠くまで見てる空なんだね」

 そういう言い方をしたことはなかった。けれど、間違ってはいない。

「でも、春の星のほうが、なんかやさしい感じがする」

「ぼやけてるだけだろ」

「ハルくんは、ほんとに夢がない」

 その夜、俺の数は十二だった。アイは、五十一と言った。

 木曜の夜、月がライオンの中にいた。

 しし座の胴のあたりに、丸に近い月が居座っている。明るすぎて、まともに見ると目が痛い。せっかく暗さに慣れた目が、月を見るたびにふりだしに戻ってしまう。

「ライオンが、月を食べてるみたい」

「食べられてるのは、星のほうだな」

 月の光は、空ぜんたいを薄く照らす。昼間の青空と同じで、空が明るくなると、暗い星から順に埋もれていく。

「月って、毎晩いる場所が違うよね」

「ひと月かけて、星座のあいだを一周する。一日に、腕を伸ばしたこぶし一個と少しぶん、東へずれていく」

 俺は腕を伸ばして、こぶしを月の横に並べてみせた。アイも真似をした。俺の手袋をはめた左のこぶしと、何もつけていない右のこぶし。

「じゃあ、そのうちライオンから出ていっちゃうんだ」

「あさってには、たぶんな」

 その夜、俺の数は四だった。レグルスと、デネボラと、明るい星があと二つ。俺が数えはじめてから、いちばん少ない。

 アイは、四十一と言った。

 月が明るいと、お互いの顔がよく見える。数え終わってフェンスにもたれると、アイの頬の産毛まで白く光っていた。

「夜、よく毎晩出てこられるな。家、何も言わないの」

「言わないよ」

「九時過ぎまで外にいて?」

「うん。うちは、何でも許してもらえるの」

 アイは、月に照らされた左手の手袋を見ていた。

「何でも許してもらえるのって、あんまりいいことじゃないよ。怒られないのって、けっこう、さみしい」

「……そういうもんか」

「うちで私を普通に扱うの、猫だけなんだ。呼んでもこたつから出てこないし、引っぱり出すとひっかく」

 手袋の上から、アイは左手の甲を撫でた。

 何でも許してもらえる理由を、俺は聞かなかった。聞かないことが、だんだん上手になっている。

「ハルくんは?」

「何が」

「ほんとは、なんで天文部に入ったの。先輩に誘われたっていうの、嘘でしょ」

 最初の夜のことを、覚えていたらしい。

 ごまかす言葉を探しているうちに、別の言葉が先に出た。

「……じいちゃんが、星が好きだったから」

 言ってしまってから、自分でも少し驚いた。誰にも話したことはなかった。

 祖父は、うちの裏の物干し台で、よく星を見ていた。小さかった俺を膝に乗せて、赤いセロハンを貼った懐中電灯で星座の本を照らしてくれた。レグルスが小さな王様だと教えてくれたのも、そらし目を教えてくれたのも、祖父だ。

「その懐中電灯、おじいさんの?」

「うん」

「おじいさんは、いまも星、見てるの?」

「二年前に死んだ」

 アイは、何も言わなかった。

「あそこの病院で」

 俺は、町でいちばん明るい建物を顎で示した。

「最後の夜、親に来いって言われた。行かなかった。行ったら、本当に終わる気がして」

 少しだけ、間があいた。

「……行かなくても、終わったけど」

 月の光の中で、アイがゆっくりと一度、瞬きをする。数を言う前と、同じ瞬きだった。けれど、数は言わなかった。

「そっか」

 それだけだった。それだけで、よかった。

 帰り道、校門で別れるとき、アイは手袋をはめた左手を一度だけ振った。月が明るすぎて、自転車のライトをつけなくても、道が白く見えていた。

 週末、月はライオンを出て、隣のおとめ座のほうへ移っていった。

 日曜の夜、九時になる少し前に、俺は自分からアイに送った。

〈月、まだうるさい?〉

 返事は、いつもより少し遅れて来た。数字と、ひとこと。

〈三十六。うるさい〉

 それから、もうひとつ。

〈ハルくんから来るの、はじめてだね〉

 何と返せばいいかわからなくて、俺は月の写真を一枚だけ送った。スマホで撮った月は、白くにじんだ丸にしか写らなかった。

 終業式の日の昼、俺たちは初めて、明るいうちに部室で会った。

 北向きの部室は、昼でも少し薄暗い。壊れた天体望遠鏡が窓ぎわに立てかけてあって、壁には色の抜けた星座早見のポスターが貼ってある。段ボールの中のカイロは、残り三つになっていた。

 昼の光で見るアイは、夜よりも少しだけ白かった。

 机いっぱいに、日誌の束を広げる。

「実績になるかどうかわかんないけど、ひとつ考えた」

 俺は、いちばん古い一冊を開いた。

「この日誌、何十年も同じやり方で、しし座の星を数えてる。だから、この町の空がどう変わってきたか、比べられる」

「変わったの?」

「たぶん」

 二人で、ページをめくっていった。古い年ほど、数が多い。二十を超える夜が、いくらでもある。それがある年から、ゆっくりと減りはじめる。

 その年の欄外に、先輩の誰かの字で、短い書きこみがあった。

〈国道沿いにコンビニ開店。東の空が白い〉

 何年かあとには、こうも書いてあった。

〈駅前の街灯、新しくなる。明るすぎ〉

「町が明るくなるたびに、星が減ってるんだ」

「そういうこと。地上の明かりが空に漏れると、空そのものが白っぽくなる。光害っていう」

「こうがい」

「光の害、で光害」

 アイは、コンビニの書きこみを指でなぞった。

「じゃあ、この日誌って、この町が少しずつ星を失くしてきた記録なんだね」

「大げさに言えば、な」

「大げさに言おうよ。実績なんだから」

 アイが笑った。昼の部室で聞くその笑い声は、屋上で聞くのとは、少し違って聞こえた。

「何十年ぶんの数を、一枚のグラフにする。それを佐伯先生に見せる」

「私の数も、グラフに入れてね」

「入れたら、全部おかしくなるだろ」

「別の線にすればいいでしょ。ハルくんの線と、私の線」

 アイは、譲らなかった。

 ページをめくっていくと、一年前の四月に、急に角ばった字があらわれた。俺が入部した最初の夜だ。

「これ、ハルくんの字?」

「……そう」

「いまより、ちょっと丸い」

「うるさい」

 そのとき、部室の扉が軽く叩かれた。振り返ると、佐伯先生が戸口にもたれていた。この人が部室まで来るのは、俺の知るかぎり初めてだ。

「グラフか」

 先生は机の上の方眼紙をのぞきこんで、ふん、と鼻を鳴らした。

「悪くない。部長会は、四月十五日だ。それまでに仕上げろ」

 それだけ言って、戻りかけてから、先生はアイのほうを振り返った。

「無理すんなよ」

「はーい」

 アイは、軽く手をあげて返事をした。先生の足音が廊下を遠ざかっていくまで、彼女はその手をおろさなかった。

 その夜、俺の数は十七に戻っていた。

 満月を過ぎると、月の出は毎晩少しずつ遅れていく。九時までの空に、もう月はいなかった。霞も、今夜はいくらか薄い。

 アイは、四十八と言った。

「月、いなくなったのに、戻らないな」

「何が?」

「おまえの数。最初は六十九だった」

「そうだっけ」

「目、悪くなったんじゃないの」

 赤い光の中で、俺はアイの目をのぞきこんだ。黒目は、最初の夜と同じように、懐中電灯の赤を小さな点にして映している。どこも悪そうには見えなかった。

「一・五だってば」

「眼科、行けよ」

「病院なら、ちゃんと行ってるよ」

 アイはそう言って、日誌の自分の欄を指でとんとんと叩いた。早く書け、という意味だった。

 眼科、と俺は言ったのに、アイは病院と言った。そのずれに気づいたのは、家に帰ってからだった。

 夜中の十二時を過ぎて、俺は机に方眼紙を広げた。

 最初に描いたのは、何十年ぶんのグラフだった。横に年、縦に星の数。一年ごとに、晴れた夜の星の数を平均して点を打つ。古い年の点は高いところに並び、そこからゆっくりと右下へ下っていく。コンビニができた年に、一段。駅前の街灯が新しくなった年に、もう一段。町の明かりがひとつ増えるたびに、線が少しずつ低くなる。

 平均の線とは別に、一夜だけ、小さな星印をつけた。二十五。大雪で、町じゅうが停電した夜だ。町がいちばん暗かった夜に、空はいちばん明るかった。

 それから、今月のぶんを描いた。横に日付、縦に星の数。俺の数を黒いボールペンで、アイの数を赤いボールペンで、点を打って線でつないでいく。

 黒い線は、ぎざぎざだった。霞んだ夜に下がり、月がライオンの中にいた夜に、四まで落ちこむ。曇りの夜は、ゼロ。天気のぶんだけ、上がったり下がったりする。

 赤い線も、ぎざぎざだった。

 そして、黒い線とまったく同じところで、上がったり下がったりしていた。霞の夜に下がり、月の夜に落ちこみ、晴れた夜に戻る。二本の線は、同じ形をしている。

 アイは、ちゃんと俺と同じ空を見ている。そのうえで、何かを足している。そこまでは、もう知っていた。

 知らなかったのは、その先だった。

 二本の線のあいだが、少しずつ狭くなっている。

 一度、ペンを置いた。

 聞かないことが上手になったのと同じで、計算しないこともできた。方眼紙を畳んで、明日も屋上で、何も知らないまま数を並べればいい。

 俺はペンを拾い直して、赤い数から黒い数を、一日ずつ引いていった。

 五十一。五十。土曜と日曜は、俺の数がないから飛ばす。月曜には、四十七。四十六。四十五。

 曇りの夜。俺はゼロで、アイは四十。差は、四十。

 霞の夜は、三十九。月の夜は、三十七。

 そして今夜は、三十一。

 霞んでも、月が出ても、雲がかかっても関係ない。差は、毎晩きっかりひとつずつ減っていた。俺がいなかった週末のぶんまで、日付の数だけ、律儀に減っていた。

 方眼紙の上で、ペン先が止まった。

 何かが、ゼロに向かって減っている。

 頭の中に、ばらばらだったものが、勝手に並びはじめた。窓ぎわの空いた席。手の甲の絆創膏。町でいちばん明るい建物を、アイがすぐに見つけたこと。何でも許してもらえる家。無理すんなよ、と言った先生の声。眼科と言ったのに、病院と返ってきたこと。

 毎晩、星を数えたいの。

 最初の夜のアイの声が、いちばん最後に並んだ。

 俺は、机の端のカレンダーを引き寄せた。今日から、三十一日。指で日付を数えていく。三月が終わり、四月に入り、桜の咲くころを過ぎて。

 四月二十四日。

 そこで、二本の線は重なる。

第四章 星命

 その夜は、ほとんど眠れなかった。

 春休みの一日目は、何もしないまま過ぎた。方眼紙は四つに畳んで、鞄の底に入れてある。昼に一度取りだして、また戻した。二本の線は、畳んでも、ちゃんとそこにあった。

 八時前、俺は自転車をこいで学校へ向かった。

 自販機の前を素通りしたことに気づいたのは、屋上の扉を開けてからだった。今日は、俺がココアを買う番だったのに。

 アイは、二本の缶を持って待っていた。

「はい。貸しね」

 受けとった缶は熱かった。プルタブを開ける気になれず、俺はそれを手の中で転がした。

 十五分が過ぎるのを待たずに、鞄から方眼紙を出した。

「……これ」

 赤い光で照らす。黒い線と、赤い線。同じ形のまま、少しずつ近づいていく二本の線。そのあいだに、俺が鉛筆で書きこんだ数字が並んでいる。五十一、五十、四十七。そして、三十一。

 アイは、しばらく黙ってそれを見ていた。

「ハルくん、計算できるんだね」

「茶化すなよ」

「茶化してないよ」

 アイは方眼紙の端を、指でそっと押さえた。風で飛ばないように、というより、そこに書いてあることを確かめるように。

「四月二十四日に、重なる」

 俺が言うと、アイは小さくうなずいた。

「うん。そうなると思う」

「何が、なんだよ。何の数なんだよ、これ」

 声が、思ったより大きくなった。金網が、風で低く鳴る。

 アイは、ゆっくりと息を吐いた。白い息が、赤い光の中でほどけていく。

「せいめい、っていうの」

「……生命?」

「星の命、って書いて、せいめい」

 アイは、空ではなく、自分の目もとに指を当てた。

「去年の暮れから、私にしか見えない星があるの。空にあるんじゃなくて、たぶん、ここに」

 指先が、まぶたの上で止まる。

「最初は、朝だった。起きて目を開けたら、部屋の天井に、星があったの。電気をつけても消えなくて、窓の外を見ても、ついてくる。きれいだったよ。最初の日は、ほんとに、きれいだと思った」

 アイは、手袋をはめた左手で、缶を包み直した。

「最初の日は、百二十と少しあった。それが、毎日ひとつずつ消えていくの。一日も休まないで。星が消えるのと一緒に、体のほうも、ちょっとずつ」

「消えて、ゼロになったら」

 言いかけて、俺は口を閉じた。

 アイも、続きを言わなかった。

 聞かなくても、わかった。聞かないことが上手になったのは、たぶん、こういうときのためじゃなかった。

「病院の先生たちも、わからないんだって」

 アイは、方眼紙から指を離した。

「世界で、私しかいないから。前の人がいないから、治し方も、誰も知らない。名前も、先生たちがつけたの。私が、星が見えるって言ったから」

 少しだけ、笑った。

「かっこいい名前でしょ」

 見えてないだけだよ、と最初の夜にアイは言った。

 そのとおりだった。俺には、何ひとつ見えていなかった。

 何も答えられなかった。答える言葉を、俺はひとつも持っていなかった。手の中の缶が、少しずつぬるくなっていく。手袋をしていない左手の指先だけが、やけに冷たい。

「佐伯先生は、知ってるのか」

「学校には、言わなきゃいけなかったから。屋上で星を数えたいって言ったら、鍵を貸してくれた。そのかわり、毎晩九時までって」

 職員室の明かりのことを、俺は思い出した。俺たちが昇降口を出るまで、毎晩、決して消えなかった明かり。

 残業なんかじゃなかった。

「……病院の窓からだって、数えられるだろ」

「数えられるよ。でも、病院で数えたら、病人が数えてる数になるでしょ」

 アイは、フェンスの金網を指でつまんだ。

「ここで数えたら、ただの天文部員の数になる」

 それから、思い出したように付け足した。

「グラフ、ちゃんと仕上げてね。部長会、四月十五日でしょ」

 自分のことを話している途中で、どうして部活の心配ができるのか。俺には、わからなかった。

「なんで、数えるんだよ」

 喉の奥から、やっとそれだけ出た。

「そんなの、数えたら」

「数えないほうが、こわいよ」

 アイは、東の空を見上げた。

「数えてれば、今日が自分のどこなのか、わかるから。わからないまま、いきなり終わるより、ずっといい」

「……なんで、俺に言わなかったんだよ」

「言ったら、ハルくん、来なくなると思ったから」

 言い返そうとして、何も出てこなかった。

 遠くで、最終のひとつ前の電車が鉄橋を渡っていく。

「数えよっか」

 アイは、いつもの声で言った。十五分は、とっくに過ぎていた。

 俺は、しし座を見上げた。数える気なんかなかったのに、目は勝手に、レグルスから線をなぞりはじめていた。何年も繰り返してきたことは、こういうときにも止まってくれない。

「……十七」

 隣で、アイが小さく唇を動かす。そして、ゆっくりと一度、瞬きをした。

「四十七」

 それから、少しだけ首をかしげて、俺のほうを見る。

「じゃあ、三十だね」

 引き算を、彼女は自分でやってみせた。毎晩そうしていたのだと、そのときになって、ようやくわかった。俺が十八と言った最初の夜から、ずっと。

「明日も、来てくれる?」

 答えられなかった。

 口を開けたら、取り返しのつかないことを言ってしまいそうだった。俺は、開けていない缶を握ったまま立ちあがった。

「……帰る」

「ハルくん」

 振り返らずに、扉を開けた。

「ライト、忘れてる」

 背中で、アイの声がした。祖父の懐中電灯は、フェンスの土台の上に置いたままだった。日誌も、方眼紙も。取りに戻れば、もう一度アイの顔を見ることになる。

 俺は階段を駆けおりた。職員室の明かりの前を、顔を伏せて通りすぎた。

 次の夜、俺は屋上に行かなかった。

 八時になっても、自転車の鍵に手が伸びなかった。部屋のカーテンを閉めて、ベッドの上でスマホを伏せる。窓の外にしし座がいることは、見なくてもわかっていた。いつもの時間に、いつもの場所へ、あのライオンは上ってくる。

 九時ちょうどに、スマホが短く鳴った。

 伏せたままにしておこうとして、できなかった。画面を返すと、通知に、数字だけが浮かんでいる。

〈四十五〉

 開かなかった。開けば、既読がつく。既読がつけば、俺がこれを見たことを、アイが知る。見たのに、行かなかったことを。

 二年前の冬も、こうだった。

 夜中に病院から電話があって、母が俺の部屋の戸を叩いた。早く支度しなさい、と言われて、俺は布団から出なかった。行けば、本当に終わってしまう。終わるところさえ見なければ、まだどこかで続いていられる気がして。

 朝になって、祖父が夜のうちに死んだと聞いた。

 あのときから、俺は何も変わっていない。

 次の日の夜は、一度だけ、自転車を玄関から出した。

 サドルにまたがって、ペダルに足をかけた。そこから先へ、足が動かなかった。屋上に行けば、アイがいる。今夜の数を言う。俺はそれを聞いて、日誌に書く。引き算をする。その答えを、毎晩ひとつずつ、自分の手で小さくしていく。

 自転車を、玄関に戻した。

 夕飯の片づけをしていた母が、居間から顔を出した。

「今日も行かないの、屋上」

 俺が毎晩どこへ出かけていたのか、母は知っていたらしい。

「……晴れてないから」

 窓の外は晴れていた。母は何も言わずに台所へ戻りかけて、それから、ふと思い出したように振り返った。

「そういえば、おじいちゃんの懐中電灯、どこにやったの。玄関の棚になかったけど」

「部室」

 嘘ではなかった。けれど、本当でもない。あれは、屋上のフェンスの土台の上に置いてきた。アイの隣に。

 カーテンの隙間から、東の空が少しだけ見えていた。釣り針の形が目に入って、俺は反射的に、レグルスから数えはじめている。五つまで数えて、カーテンを閉めた。

 九時ちょうどに、数字が届いた。

〈四十四〉

 その次の夜も。

〈四十三〉

 ひとつずつ、減っていく。俺の数は、どこにも書かれない。カーテンの向こうで、三月が終わろうとしていた。

 四日目の夜、九時になっても、スマホは鳴らなかった。

 九時五分。九時十分。画面は、暗いままだった。

 俺は、あの夜から初めて、アイとのトークを開いた。四十五、四十四、四十三。既読のつかないまま並んでいた数字に、いっせいに既読がつく。その下に、今夜のぶんはなかった。

 九時十五分。

 気がつくと、自転車をこいでいた。

 国道沿いのコンビニの明かりが、背中のほうへ流れていく。冷たい風が耳を切った。左手だけが、ハンドルの上でかじかんでいる。左の手袋は、まだアイが持っている。

 学校へ向かう道は、病院の前を通る。町でいちばん明るい建物の、白い窓の列。その前を、俺は顔を上げないまま走りぬけた。

 学校の門は閉まっていた。通用口の脇の隙間から入ると、真っ暗な校舎の中で、一階の職員室だけが明るかった。

 窓を叩くと、佐伯先生が顔を上げた。驚いた様子は、なかった。

「来たか」

 先生は机の引き出しを開けて、何かを取りだすと、窓ごしに差しだした。

 観測日誌と、赤いセロハンを貼った懐中電灯だった。

「昼に、あいつのお母さんが持ってきた。おまえが来たら渡してくれ、とさ」

「……アイは」

「病院だ。熱が下がらんらしい」

 先生は、少しだけ間を置いた。

「まだ、大丈夫だ。まだな」

 その「まだ」が、どれくらいの長さなのか、先生は言わなかった。俺も、聞かなかった。

「先生は、毎晩、なんで残ってたんですか」

 かわりに、それを聞いた。

「俺は古典の教師だからな。星のことは、何ひとつわからん」

 先生は、机の上の文庫本に目を落とした。何週間も同じページが開いたままの、あの本だ。

「わからん人間にできるのは、明かりをつけて、待っとくことくらいだ。春休みに入ってからは、土日も開けとる。あいつは、一晩も休まんからな」

 懐中電灯のスイッチを入れると、赤い光は、最後に見たときより少し弱くなっていた。誰かが、何晩か、これを使っていた。

 俺は職員室の窓の下にしゃがみこんで、日誌を開いた。蛍光灯の白い光の中で見る日誌は、屋上で読むのとは、別のもののように見えた。

 三月二十五日の行には、俺の十七が、アイの字で書いてあった。俺が逃げたあと、彼女がかわりに書いておいたらしい。

 その次の行。

〈三月二十六日 晴れ〉

 アイの欄に、四十五。欄外に、小さな字で、ひとこと。

〈ココア、二本買っちゃった〉

〈三月二十七日 晴れ〉

 四十四。

〈三月二十八日 晴れ〉

 四十三。

 自分が来なかった夜のページにも、彼女の字で、数がひとつずつ書かれていた。

 俺の欄には、どの夜にも、横に一本の線。

 曇りの夜に、俺が引いたのと同じ線だった。

第五章 使い切る

 病院の正面玄関は、もう閉まっていた。

 自転車を駐輪場の柵に立てかけて、俺は建物を見上げた。町でいちばん明るい建物。二年前、来るはずだった場所。白い窓の列が、四階まで重なっている。どの窓の向こうにアイがいるのか、わからなかった。

 日誌と懐中電灯を抱えたまま、スマホを出した。トークの画面には、既読のついた四十五、四十四、四十三が並んでいる。その下に、打った。

〈いま、病院の前にいる〉

 送ってから、ずいぶん長い時間がたった気がした。実際には、一分もたっていなかったのかもしれない。

〈なんで〉

 いつか俺が送ったのと、同じ三文字だった。

〈数えに来た〉

 しばらくして、南側の四階の窓のひとつで、カーテンが動いた。逆光で、人の形だけが見える。その影が、片手をあげた。ぶかぶかの手袋をはめた、左手だった。

 電話をかけるのは、初めてだった。

「……ハルくん」

 声が、思っていたより近い。

「枕もとの明かり、消せる?」

「看護師さんに怒られるよ」

「十五分だけ。目が慣れないと、数えられない」

 窓の明かりが、ふっと消えた。暗くなったガラスの向こうに、アイの輪郭がうっすら残っている。

 十五分のあいだ、俺たちはほとんど何も話さなかった。電話の向こうで、アイが息をするのが聞こえる。ときどき、病院の機械の低いうなりが混じる。国道を、大きなトラックが一台通りすぎていった。少し遅れて、電話の向こうからも、同じ音が聞こえてくる。

「……ごめん」

 やっと、それだけ言えた。

「ココア、貸し二本ね」

 アイの声は、少し笑っていた。それ以上は、何も言わなかった。

 病院の駐車場から見るしし座は、いつもより白っぽかった。町でいちばん明るい建物の、すぐ下にいるのだから当然だ。そらし目で、線の端のほうまで拾っていく。

「九」

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

「三十五」

 俺は日誌を開いて、赤い光で今日の日付の行を照らした。自分の欄に九、アイの欄に三十五と書いて、その横に、もうひとつ数字を書く。

「二十六」

 引き算は、今度は俺がした。

 電話の向こうで、アイが息を吸う音がした。

「病院で数えたら、病人の数になるって、言ってたよな」

「……うん」

「これは、天文部の出張観測。だから、天文部員の数」

 しばらく、返事がなかった。

「ハルくん、ずるい」

 声が、少しだけ震えていた。窓の向こうの影が、手袋の左手で目もとをこすった。

「明日も来る」

 窓を見上げたまま、俺は言った。

「明日も、あさっても。晴れても、曇っても」

 二年遅れで、俺はやっと、この建物の前まで来た。

 次の日から、面会時間に病院へ通った。

 アイの病室は、四階の個室だった。ベッドは、窓ぎわにある。アイの母親は、俺の顔を見ると、少しだけ目を見開いた。

「あなたが、ハルくん」

 それから、ベッドの横の椅子をすすめてくれた。

「この子、毎晩帰ってくると、数の話ばっかりするのよ。今日はハルくんが十七で、私が何個で、って。ほかのことは、何にも話さないのに」

「お母さん」

 アイが、布団を顔まで引っぱりあげた。母親は笑って、廊下へ出ていった。

 ベッドの上の可動式のテーブルで、俺たちは模造紙の下書きをした。何十年ぶんの点を打ち直す俺の手もとを、アイは枕にもたれて、黙って見ていた。

 夜になると、俺は駐車場から電話をかけた。四階の窓の明かりが消えて、十五分待って、数を言い合う。看護師さんに見つかったのは、三日目だった。怒られたのは、アイだけだったらしい。

 アイが退院したのは、四月二日だった。

 その夜、屋上の扉を開けると、アイはフェンスの前にいた。最初の夜と同じ場所で、同じように空を見上げて。違うのは、両手にココアを一本ずつ持っていることだった。

「貸し二本、返してもらうからね。今日から、ハルくんが毎日買う番」

 受けとったココアは、熱かった。

「ひとりで数えた夜ね」

 アイは、屋上の床のコンクリートを、つま先でつついた。

「やっぱり、さみしかったよ」

「……知ってる」

「日誌、読んだもんね」

 それで、その話は終わった。

 残りの日を、俺たちは使い切ることにした。そう決めたわけじゃない。言葉にしたこともない。ただ、毎晩、屋上に上った。土曜の夜も、日曜の夜も、職員室の明かりは最後までついていた。差は、俺の頭の中でも、毎晩ひとつずつ減っていった。

 しし座のほかの星も、教えた。

 北の空の高いところに、北斗七星。ひしゃくの柄のカーブを、そのまま南へ伸ばしていくと、オレンジ色の明るい星にぶつかる。うしかい座のアークトゥルス。そこからさらに伸ばすと、白いスピカ。春の大曲線、という。

「線で、どんどんつながっていくんだ」

「星座の星って、本当は、全然違う距離にあるんだけどな。レグルスとデネボラだって、地球からの遠さは倍くらい違う。こっちから見て、たまたま並んでるように見えるだけ」

「それでも、線を引いたら、仲間になるんだね」

 アイは、アークトゥルスとスピカと、しし座のしっぽのデネボラを、指で結んだ。大きな三角形ができる。

「これは?」

「春の大三角」

「じゃあ、私たちも三角形にしようよ。ハルくんと、私と、佐伯先生」

「先生は、屋上に来ないだろ」

「来なくても、線は引けるでしょ」

 帰りに、国道沿いのコンビニで肉まんを半分にして食べた。この町の空を白くした張本人の店だね、とアイは言う。湯気が、店の明かりの下で白く上っていった。

 新学期が始まって、俺たちは三年生になった。アイが教室に来る日は、三月よりさらに少なくなった。

 屋上までの階段を、アイは途中で一度、休むようになった。三階の踊り場で。それが、そのうち二度になる。

 ある夜、二階の踊り場で座りこんだアイの前に、俺は黙って背中を向けた。

「……重いよ」

「軽い」

 本当に、軽かった。背中に乗ったアイは、手袋の左手を俺の肩に置いて、屋上の扉まで一言もしゃべらなかった。首の後ろに当たる息だけが、あたたかい。

 四月十五日の部長会には、俺がひとりで出た。

 何十年ぶんのグラフを、模造紙に描き直して持っていった。町の明かりが増えるたびに、一段ずつ下がっていく線。停電の夜の、小さな星印。

 各部の部長たちは、最初は退屈そうに頬杖をついていた。それが、コンビニができた年で線が一段下がったところで、何人かが顔を上げた。

「この町の空は、四十年かけて、少しずつ星を失くしてきました」

 大げさに言おうよ、とアイは言っていた。だから、大げさに言った。

 会議の終わりに、生徒会長が言った。

「天文部は、今年度は存続。来年までに部員を増やすこと」

 アイの赤い線は、模造紙には描かなかった。あれは、日誌の中にだけあればいい。

 部室で待っていたアイに結果を言うと、彼女は「やった」と小さく言って、それから、なぜか少しだけ泣いた。

 その夜の差は、九だった。

 四月の半ばを過ぎて、校庭の桜が咲いた。この町の桜は、平地よりずっと遅い。夜になっても、まだ息が白かった。それでも、屋上から見下ろす校庭は、街灯に照らされた花で、ぼんやりと明るかった。

「桜のせいで、星、減る?」

「さすがに、それはない」

「よかった」

 四月二十二日の夜、佐伯先生は、九時を過ぎても屋上を閉めろと言わなかった。

「こと座流星群だろ。去年の日誌に書いてあった」

 先生は、職員室の窓から顔だけ出して言った。

「月が上ってくるまでだぞ」

 流れ星は、思っていたよりずっと少なかった。北東の低いところに、こと座のベガが顔を出している。そのあたりから、ときどき、細い光が空をかすめていく。一時間で、三つ。

 三つ目が流れたとき、アイは目を閉じた。数を言う前の瞬きとは違った。両手を胸の前で組んで、しばらく、そのまま動かない。

「何、お願いしたんだよ」

「ないしょ」

「流れ星って、宇宙のちりが空気にぶつかって、燃えてるだけだぞ」

「知ってる。ハルくんが言いそうだと思った」

 アイは笑って、目を開けた。

「でも、燃えてるあいだは、ちゃんと光ってるでしょ」

 東の山の端が、白くなりはじめていた。月が上ってくる。

 次の夜、帰りぎわに、アイは扉の前で振り返った。

「明日、晴れるかな」

「晴れる。天気予報で言ってた」

「曇ってても、来てね」

 最初の夜、同じことを聞いたのはアイのほうだった。曇ってても来ていいか、と。今度は、来てね、と言った。

「来る」

 俺は答えた。それ以外の答えは、もう持っていなかった。

 四月二十四日は、よく晴れた。

 その夜、アイは自分の足で階段をのぼった。後ろからついていく俺の前で、三月のはじめと同じ足どりのまま、一度も休まなかった。

 屋上の扉を開けると、先客がいた。

 佐伯先生だった。五年間、一度も来なかった人が、扉の横のコンクリートに腰をおろして、缶コーヒーを手の中で転がしている。何も言わない。俺たちも、何も聞かなかった。

 アイは先生を見て、それから俺を見て、小さく笑った。三角形だね、と、声に出さずに言った気がした。

 フェンスの金網に、桜の花びらが一枚、引っかかっていた。校庭から、風に乗ってここまで上ってきたらしい。

 十五分待つあいだ、ココアを飲んだ。今夜も、俺が二本買った。

 アイは、俺の左の手袋をはめていた。四月の終わりでも、この町の夜は、まだ指先がかじかむ。

 しし座は、もう南の空の高いところにいた。三月のはじめ、同じ時刻には、まだ東の空にいたライオンだ。季節が進むと、同じ時刻に見える星座は、毎晩少しずつ西へずれていく。ひと月半ぶん、ライオンは歩いてきた。

 俺は数えた。レグルスから、たてがみをなぞって、胴へ。しっぽのデネボラまで。

「十八」

 最初の夜と、同じ数だった。

 隣で、アイが唇を動かす。しし座の形を、ゆっくりなぞっていく。そして、いつものように一度、瞬きをした。

 目を閉じていた時間は、これまででいちばん長かった。

 目を開けて、アイは言った。

「十八」

 俺は日誌に書いた。自分の欄に、十八。アイの欄に、十八。

 引き算をする必要は、なかった。

「やっと、合ったね」

 アイが笑った。最初の夜に「見えてないだけだよ」と言ったときと、同じ顔だった。

 何か言おうとした。何も、出てこなかった。

「明日からも、数えてね」

「……ひとりで?」

「ひとりで数えるのはさみしいって、私、言ったけど」

 アイは、しし座を見上げた。

「たぶん、もう、さみしくないよ」

 どういう意味かは、聞かなかった。聞かないのが上手になったからじゃない。聞かなくても、いいと思えたからだ。

 かわりに、右手の手袋を外して、手袋をはめたアイの左手を握った。毛糸ごしに、彼女の指が、少しだけ握りかえしてくる。

 扉の横で、佐伯先生が、缶コーヒーを置く小さな音がした。

 遠くで、最終のひとつ前の電車が、鉄橋を渡っていく。

 それが、アイと数えた最後の夜になった。

第六章 アイ

 最初に星を見たのは、天井だった。

 冬休みの最初の朝、目を開けたら、部屋の天井に、小さな光の粒が散らばっていた。カーテンの隙間から差しこむ朝日の中でも、消えない。電気をつけても、窓の外を見ても、光は私の視線についてきた。

 きれいだと思った。ほんとうに、そう思った。

 布団に寝転がったまま、私はそれを数えた。百二十一。数え終わって、ちょっとだけ得意な気持ちになったのを覚えている。誰も持っていないものを、私だけが持っている気がした。

 次の朝、百二十になっていた。

 大きな病院を三つ回って、先生たちがたくさんの機械で私の目と体を調べた。どの先生も、最後は同じ顔をした。わからない、という顔。世界のどこにも、同じ病気の人はいなかった。前の人がいないから、治し方も、終わり方も、誰も知らない。

 知っているのは、私だけだった。星がひとつ消えるたびに、体のどこかが、ほんの少しずつ遠くなる。その感じを、言葉にできる人はいなかった。私にも、できなかった。

 先生たちは、私の病気に名前をつけた。星命。

 いい名前だね、と言ったら、母は洗面所に行って、しばらく戻ってこなかった。

 その日から、うちでは何でも許されるようになった。夜ふかしも、ごはんを残すのも、学校を休むのも。父は何も言わなくなって、母は何でも笑ってうなずくようになった。

 怒られない家は、静かで、やさしくて、少しずつ息がしにくくなった。

 いつもどおりなのは、猫だけだった。こたつから引っぱり出すと、ちゃんとひっかいてくる。私は、手の甲の傷を見るたびに、少しだけ安心した。

 一月の終わりに、検査のために二週間、町の病院に入院した。

 四階の、南向きの病室だった。夜になると、窓の外に、町が小さく沈んでいる。国道沿いのコンビニ。ぽつぽつと並ぶ街灯。その向こうに、私の通っている高校の、黒い校舎が見えた。

 晴れた夜、その屋上に、赤い光がひとつ灯った。

 八時を過ぎたころに現れて、九時になると消える。豆粒より小さな、赤い点。ゆらゆらと動いて、ときどき止まる。止まっているあいだ、誰かが、空を見上げているのだと思った。

 毎晩、病室の電気を消して、その赤い光を探した。曇りの夜は、光は来ない。晴れた夜は、必ず来た。

 退院の前の日、担任の佐伯先生が見舞いに来てくれた。帰りぎわに、私は聞いた。

「学校の屋上で、夜、何かしてる人がいますよね」

「天文部だな」

 先生は、窓の外を見たまま言った。

「三月で三年が卒業したら、部員はひとりになる。隣のクラスの、ハルってやつだ」

 先生が帰ったあと、その名前を、私は声に出さずに何度か言ってみた。

 屋上の鍵を借りた夜、私は、ハルより先に屋上に上った。

 扉が開く音がして、振り返る前に、心臓がばかみたいに鳴った。私は名前を知っているのに、向こうは私のことなんか、たぶん知らない。だから、先に名前を呼んだ。知らないふりをされる前に。

「あ、ハルくんだ」

 声に出すときは、ハルくん。心の中では、ハル。くん、を外して呼ぶのは、ずるい気がするから、口には出さないことにしている。

 ハルは、私のことを知っていた。それだけで、その夜の半分くらいは、もう十分だった。

 スマホをしまえと言われて、ハルが赤い懐中電灯をつけたとき、病室の窓から見ていた光の正体がわかった。思っていたより、ずっと近くて、ずっとあたたかい色をしていた。

 最初に数を言ったとき、ハルは「ありえない」と言った。

 見えてないだけだよ、と私は言った。

 ほんとうに、そのとおりだった。ハルには、私の星が見えない。私が病気だということも、見えない。私の数を、数えるのが下手な女子の、変な冗談だと思っている。

 それが、どうしようもなく、うれしかった。

 この屋上でなら、私は病人じゃない。ただの、数を間違える天文部員でいられる。

 私の数え方は、こうだ。

 まず、目を開けたまま、しし座の中の星を数える。そこには、ハルと同じ本物の星と、私の星が混じって見えている。それから、ゆっくり一度、目を閉じる。まぶたの裏の暗がりには、本物の星は届かない。残るのは、私の星だけ。それを数えて、引いて、足す。

 瞬きのあいだに、私は毎晩、自分があと何日なのかを数えていた。

 ハルがそれを、ただの癖だと思ってくれていたらいいと思った。

 投げてもらったカイロは、その夜、布団の中で朝まで握っていた。誰かに何かをもらって、それが朝まであたたかいのは、ずいぶん久しぶりだった。だから次の夜、ココアを二本買った。お返しが、したくて。うちでは、私はもらうばかりで、何も返させてもらえない。

 九時に階段を下りると、職員室の明かりがついている。ハルはたぶん、残業の多い先生だと思っている。私は、その明かりの意味を知っていた。何かあったら、すぐに駆けあがれるように。先生は毎晩、読めもしない本を開いて、そこで待っていた。

 ハルには、言わなかった。言ったら、全部言わなきゃいけなくなる。

 手袋は、最初の夜は、ほんとうに忘れた。二日目からは、わざと忘れた。

 ハルが何か言ってくれるのを、待っていたのだ。言ってくれたのは、寒さがぶり返した夜だった。片方だけ差しだされた手袋は、指の先が余るほど大きくて、中がまだ、少しだけあたたかかった。

 返すのは、ずっと忘れたふりをした。

 土曜の夜、屋上に行けない日は、部屋の窓から数えた。ひとりで数えると、数が、ただの数に戻ってしまう。だから、ハルに送った。返事が来ると、数は、また天文部の記録に戻った。

 星が瞬く、とハルが教えてくれた夜のことは、たぶん忘れない。

 まばたきと、またたき。同じ字だと聞いて、私は少し黙った。私がまぶたを閉じるたびに数えている星も、どこかで、またたいているのかもしれない。そう思ったら、うまく笑えなかった。

 しし座の神話を聞いた夜も、そうだった。

 死んだら、星座になる。神話の話だよ、とハルは言った。わかってる。わかってるけど、毎晩見てもらえるのは、いいなと思った。

 月がライオンの中にいた夜、ハルは、おじいさんの話をしてくれた。最後の夜、病院に行けなかったこと。行ったら、ほんとうに終わる気がしたこと。

 あのとき、私は一度、目を閉じた。まぶたの裏で、自分の星を数えた。三十七。

 言おうと思えば、言えた。でも、そのとき決めた。言わない。言ったら、ハルはまた、行けなくなる。おじいさんのときと、同じように。

 グラフに私の線を入れてほしいと言ったのは、それから何日かあと、終業式の日だった。言葉で言えないなら、せめて、ハルの線の隣に、私の線を置いておきたかった。いつか、ハルが自分で気づいてくれるように。気づかなくても、それはそれで、いいように。

 方眼紙を見せられた夜、私はほっとしていた。

 ずっと、どうやって言えばいいのかわからなかった。ハルは、自分で見つけてくれた。計算で、線で、ちゃんと。それが、いちばんハルらしいやり方だと思った。

 それから、ハルは来なくなった。

 来ないことは、わかっていた。言ったら来なくなる、と思ったから、言わなかったのだ。それでも、扉が開かない夜は長かった。

 ひとりで数えた三晩、私は日誌のハルの欄に、横に一本、線を引いた。

 曇りの夜に、ハルがそうしたのを真似して。

 曇っていても、星はある。雲の上に、ちゃんとある。見えないだけで、いないわけじゃない。ハルも、そうだと思った。

 ココアは、毎晩二本買ってしまった。一本は、帰り道で冷たくなった。

 熱が出て、また四階の病室に戻った夜。九時を過ぎても、私は数を送れなかった。送ったら、また既読がつかないかもしれない。それが、こわかった。

 スマホが鳴ったのは、十時になる少し前だった。

〈いま、病院の前にいる〉

 窓のカーテンを開けた。

 一月に、何度も赤い光を探した窓だった。その真下の駐車場に、人影がひとつ、こっちを見上げて立っていた。

 電話がつながって、枕もとの明かりを消して、しばらくすると、その足もとに、小さな赤い光が灯った。

 一月には、遠くの屋上にあった赤い点が、今度は、私の窓の真下にあった。

 電話の向こうで、ハルが引き算をした。病人の数じゃなくて、天文部員の数だと言った。

 ずるい、と言うのがやっとだった。

 あの夜、私は、自分がこの町でいちばん明るい建物の中にいることを、はじめて少しだけ好きになった。

 退院してから、階段が少しずつ長くなった。二階の踊り場で座りこんだ夜、ハルは黙って背中を向けた。重いよ、と言ったら、軽い、と言われた。ハルの背中は、思っていたよりずっと広い。コートから、毛玉と、冬の匂いがする。屋上の扉まで、何もしゃべれなかった。しゃべったら、泣いているのがばれるから。

 部長会で天文部が残ると聞いたとき、泣いてしまったのは、うれしかったからだ。

 来年までに部員を増やすこと。生徒会長はそう言ったらしい。

 来年。私のいない、来年。そこにハルがいて、赤い光がある。誰かが、また屋上の扉を開ける。そう思ったら、うれしくて、少しだけ悔しくて、どっちの涙かわからなくなった。

 流れ星には、ひとつだけ、お願いをした。

 私の星を、ひとつでいいから、ハルにも見えますように。

 百二十一あった私の星は、ずっと、私だけのもの。誰にも見えなくて、誰にも数えてもらえなかった。最後のひとつくらい、ハルに数えてほしかった。

 燃えているあいだは、ちゃんと光っている。流れ星も、たぶん、私も。

 最後の夜、階段を一度も休まずにのぼれたのは、たぶん、星がくれたおまけだった。

 扉を開けたら、佐伯先生がいた。春の大三角だ、と思った。来なくても線は引けると言ったけれど、来てくれたほうが、ずっといい。職員室の明かりがなかったら、私は一晩だって、ここへ来られなかった。

 ハルが、十八と言った。

 私は、いつものように数えた。目を開けたまま、しし座の中を。十八。それから、ゆっくり一度、目を閉じた。

 まぶたの裏は、暗かった。

 百二十一あった星は、ひとつもなかった。

 暗いのは、冬休みの最初の朝から、はじめてだった。ずっと、この暗さがこわかった。目を閉じても、何もない。それが、終わりだと思っていた。

 でも、暗がりの中で、さっきのハルの声を思い出した。十八。私が目を開けて見た空と、同じ数。

 だから、もう少しだけ、目を閉じていた。こわさが、どこかへ行ってしまうまで。

 目を開けたら、ハルと同じ空があった。

 余分な星も、足りない星もない。ハルが見ている空を、ハルが見ているとおりに、私も見ている。三月のあの夜から、ずっと、それだけがなかった。

「十八」

「やっと、合ったね」

 ハルは、しばらく何も言わなかった。明日からも数えてね、と私は言った。ひとりで? とハルが聞いた。たぶん、もうさみしくないよ、と答えた。それから、ハルは手袋を外した右手で、私の左手を握った。ハルの手袋ごしに、ハルの手があった。

 手袋は、まだ返さないことにした。

 家に帰って、布団に入った。

 おやすみ、と母が言った。いつもより長く、戸口に立っている。私は、怒っていいよ、と言いかけて、やめた。かわりに、おやすみ、と返す。

 こたつから出てこないはずの猫が、その夜は廊下を歩いてきて、布団の足もとで丸くなった。重みが、あたたかい。

 窓の外は、まだ寒い。それでも、昨日より、風がやわらかい気がした。

 目を閉じる。暗い。数えるものは、何もない。

 かわりに、明日のことを考えた。

 明日の夜、ハルはひとりで屋上に上る。赤い光をつけて、十五分待って、レグルスから数えはじめる。たてがみをなぞって、胴へ。しっぽのデネボラまで。

 十九、とハルが言うところを、私は想像した。

終章

 朝、電話が鳴った。

 二年前の冬、祖父のことを聞かされたのと、同じくらいの時間だった。

 アイの母親からだった。何を言われたのか、ほとんど覚えていない。夜のうちに、眠ったまま。それだけは、ちゃんと聞こえた。

 最後に、母親は、かすかに笑うような声で言った。

「あの子ね、ハルくんの手袋、はめたまま寝てたのよ」

 返さなくていいです、と俺は言った。言ってから、それが今日いちばん、まともに言えた言葉だと思った。

 電話を切って、俺は布団から出た。

 二年前の夜は、出られなかった。今朝は、出た。カーテンを開けると、窓の外の空気が、昨日までとは違う。

 やわらかい。

 その日、町は一気に暖かくなった。

 山の残雪が、昼までに目に見えて痩せていく。水を張りはじめた田んぼから、夕方には、今年初めての蛙の声がした。校庭の桜は、残っていた花をいっせいに散らして、風が吹くたびに、道が白くなった。

 昼間のことは、あまり覚えていない。

 八時前、俺は自転車をこいで学校へ向かった。

 手袋はしていなかった。左は、アイが持っていった。右は、昨日の夜に外したまま、コートのポケットに入っている。それでも、指先はかじかまなかった。三月のはじめから、一度もなかったことだ。

 自販機の前で、ココアを二本買った。買ってから、気づいた。

 校舎は暗い。一階の職員室だけが、今夜も明るかった。

 屋上の扉を、自分の鍵で開ける。蝶番が、いつもどおり短くきしんだ。

 フェンスの前には、誰もいなかった。

 一本を、フェンスの土台の上に置いた。最初の夜、アイが立っていた場所の前に。

 十五分、待った。風が金網を鳴らす。遠くで、最終のひとつ前の電車が鉄橋を渡っていく。田んぼのほうから、蛙の声が屋上まで届く。三月の夜には、なかった音だ。冷たくない風だった。土台の上の缶から、湯気が細く上って、消えていく。ココアは、一本ぶんしか減らなかった。

 しし座は、南の空の高いところにいた。

 夏の盛りには、ライオンは日暮れの西の空に沈んで、夏の星座に場所をゆずる。それでも来年の三月になれば、同じ東の空から、また上ってくる。星座は毎年、同じ季節に、同じ場所へ帰ってくる。

 レグルスから、たてがみをなぞって、胴へ。しっぽのデネボラまで。

「十九」

 声に出してから、もう一度、数え直した。

 十九。昨日より、ひとつ多い。

 増えたひとつは、すぐに見つかった。ライオンの心臓のすぐそば。レグルスの隣に、昨日までなかった光がある。レグルスよりも明るい。眩しいくらいに。

 最初の夜、アイはレグルスを、しばらく黙って見ていた。心臓、と小さく繰り返して。

 惑星かもしれない、と最初に思った。惑星なら、瞬かない。光に、ほんの少しだけ大きさがあるから。俺は、その光から目を離さずに、日誌を開いた。

 赤い光で、今日の日付の行を照らす。

〈四月二十五日 晴れ〉

 自分の欄に、十九。

 アイの欄の前で、ペンが止まった。

 少し考えて、そこにも、十九と書いた。二つの数は、昨日と同じように、ぴったり合っている。

 日誌には、あの方眼紙が挟んである。黒い線と赤い線は、四月二十四日のところで重なっていた。今夜の点を、二本とも同じ場所に打つ。重なった線は、そこから先も、一本のまま続いていく。

 欄外に、記録を書き足した。

〈しし座、レグルスの東隣に、明るい星ひとつ。昨夜までの記録になし。明るさ、レグルス以上。観測者 天文部 ハル〉

 部員の欄に並ぶ名前は、今夜から、俺ひとりだ。それでも、この記録は、天文部の記録だった。何十年も前の誰かが始めて、俺とアイが続けて、いつか、まだ会ったことのない誰かが読む。

 ペンを置いて、もう一度、空を見上げた。

 数を言う前に、アイは、いつもゆっくりと一度、瞬きをした。

 レグルスの隣の、新しい光を、俺は見つめた。

 その星は、ゆっくりと一度、瞬いた。

星を数えた屋上

小説 · ちゃそ